佐藤優・山崎耕一郎『マルクスと日本人――社会運動からみた戦後日本論』(2015.明石書店)  残日録231023

 考え方の基本がプロテスタントという立場の佐藤優は、高校2年から1年間の浪人時代を経て大学2年まで、日本社会主義青年同盟(社青同協会派)のメンバーだったという。当時の社青同の中央本部委員長だった山崎耕一郎との対談である。佐藤はまえがきの「はじめに」で「労農派マルクス主義というユニークな思想について伝える類例のない作品になったと自負している」と書いている。
 労農派マルクス主義というが、内容は向坂派に焦点があったっている。社会主義協会(向坂)派のはなしと言えないことはない。
20歳代の加古川市役所職員時代、職員組合の多数派が向坂派であったので、労働組合という現場ではこの派の人たちとはお付き合いがあった。こちらは同じ社会党系ではあるが少数の反協会派であった。組合の執行委員会に図らず、教育委員会担当の執行委員に了解をとっただけで、ストのときに「チラシ」をまくと言ったゲリラ戦法をしたことがあった。
 労農派の構造改革派については別のところで少し紹介したい。
 この本で佐藤が労農派に対抗する講座派について「日本人の『思想の鋳型』」とりて論じているところがあるので紹介したい。

   日本人の「思想の鋳型」
 佐藤 日本人の『思想の鋳型』ということなんですけど。結局、知識人の中の圧倒的大多数の人たちというのはやっぱり講座派的な鋳型だと思うんですよ。日本的なシステムというのは変わらない、という。右翼の国体思想もそうだし、それからあと、かつて共産党員だった藤岡信勝さんとか、『新しい歴史教科書』の方向にいった人たち、この人たちもやっぱり日本のシステムという枠から外に出ない。それから、左の方の人でも、左というか真ん中グライノアカデミズム、エスタブリッシュされたアカデミズムにおいても、大塚久雄にしても丸山真男にしても、みんな日本的な型に入れていっちゃうということになるんですよね。
 山崎さんが、「われわれ農耕民族は」というかたちで言うんですが、これは実は、日本という特殊な型に入れているんじゃなくて、農耕民という型に入れているんです。フランスもその意味では農耕文明国家ですからね、ドイツも、ロシアも。そういったところというのは、やっぱり変わるのに時間がかかる。砂漠と比べて、それは確かだと思うんですよ。
 ですから今、日本の中で僕は非常に危ないと思うのは、相変わらず講座派な思考が主流で、安倍政権もそうです。要するに、国際的に通用しない議論をいろいろなところでやるんだけども、日本の中では通用してしまう。例えば、ホルムズ海峡への掃海艇を出せるか出せないかという議論はまったく意味がないですよ。だって、ホルムズ海峡にかつて機雷を仕掛けたのはサダム・フセインのイラクですけども、現在の「イスラム国」は海軍を持っていないですからね。それでは、イランがここに機雷を仕掛けることを考えているのか。しかし、国際航路帯というのはオマーンの領海内にあるわけだから、イランとアメリカがいま手を打とうとしているのに、そこでイランを仮想敵にするような議論が成り立っているということが異常なんですね。だから外国では報道されないんですよ。意味のないことをやっているから。こういうことにエネルギーのほとんどを費やしていくというのは、やっぱり日本特殊論であるとか講座派の特徴だと思うんですね。それは講座派マルクス主義とか日本共産党のドクトリンとしては大きな影響を与えないんだけれど、あらゆる部分に染みついていると思う。だからそれに対してグローバルなスタンダードというものはきちんと押さえないといけない。というふうになると、もう一回労農派はそこから見ないといけない。
 ただ、労農派的なものの見方についても危険があるわけですよね、労農派的な論理からすると、グローバリゼーションといのは不可避になるという結論も見いだせる。そうしたら竹中平蔵さんあたりのモデルになっちゃうわけですよね。日本的なるものと普遍的なるものが折り合いをどこでつけるかという、この問題というのは、『日本資本主義論争』で中途半端になったきり未だに解決していないように思えるんですね。だから、労農派・講座派という色分けが重要だというよりも、やっぱり「日本資本主義論争」を「封建論争」で中途半端にされちゃった、この後発資本主義国、帝国主義国である日本というものの特徴――普遍的なるものと個別的なるものがどこで交わっているかという問題、これは考えていかなければならない。そのときにどっちを軸に置くのか。僕は普遍的なるものに軸を置くべきだと思うんです。それから、マルクス主義というのは、普遍的なるものに軸を置いている思想だと思うんです。
山崎 昭和史、その周囲の世界の動き全体を考えながら、その中でわれわれの先輩たちとわれわれ自身がどのような発展の過程にいるかを考えることは、日々の活動を考えるうえでも、役に立つと思う。
佐藤 ただ、居心地が悪いんだな、たぶんこの普遍的なほうに軸を置くと。いつも考えていないといけないから。それで、日本とはこういうものなんだということで思考の断絶ができるわけで。日本の鋳型に一回入っちゃえば。常に皇室に回収されて、何とかさまブームみたいな感じになって来る。で、これは差別の問題とも非常に絡んでいるわけですよね。生まれながらに高貴な人がいるというのは、そうでない人もいるということですから。だから、それを沖縄なんかからすれば、要するに、沖縄に生まれたことを運悪く思えと、こういう話以上でも以下でも何でもないわけでしょ。そういう暴論が通用しているわけですよね。それで圧倒的に大多数の日本人というのが、そこのところはあまり自覚しない。どう考えたって0.6%の耕地面積がないところに74%の在日米軍基地があって、しかも今騒動になっている普天間の海兵隊は1950年代までは岐阜と山梨にいた、これは客観的な事実ですから。沖縄にあの海兵隊はいなかったんですから。それだけども、この沖縄の過剰負担ということに対して、これが構造化された差別なんだということを認めようとしないというのは非常に不思議ですよね。それは自分たちの特殊な型に入っているからとしか思えない。(p222~225)

「相変わらず講座派な思考が主流で、安倍政権もそうです。要するに、国際的に通用しない議論をいろいろなところでやるんだけども、日本の中では通用してしまう」というのは、竹村健一の「日本の常識は世界の非常識」を思い出させてもくれる。
労農派は日本の社会科学において少数派で、多数派は講座派なのだ。

この論争は、ウィキによると、
「労農派は明治維新を不徹底ながらブルジョア革命と見なし、維新後の日本を封建遺制が残るものの近代資本主義国家であると規定し、したがって社会主義革命を行うことが可能と主張したが、共産党系の講座派は、それに反対して半封建主義的な絶対主義天皇制の支配を強調して、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化を主張した(「二段階革命論」)。この論争を日本資本主義論争と呼ぶ」とある。
その影響として「日本資本主義の前近代性を主張する講座派の理論は、大塚久雄を中心とした「大塚史学」にも影響を与えたとされる。また第二次世界大戦後も、日本を「対米従属と大企業・財界の横暴な支配」と認識して当面の「民主主義革命」が必要とする日本共産党系と、日本は既に帝国主義国家であると認識してそれを打倒すべきとする勢力(社会党左派、新左翼など)の、理論や活動の相違に影響を与えた。全体として講座派の潮流は、戦前・戦後を通じて民主主義革命→社会主義革命という2段階革命を主張し、労農派の流れを汲む潮流は、直ちに社会主義革命を主張するという特徴があったといえよう」としている。

 仮説実験授業に「差別と迷信――被差別部落の歴史」という授業書がある。この授業書が生まれた初期の段階で、この論争について話題にした人がいた。明治維新というのは主観的には講座派の理論が背景にあったが、明治維新そのものの結果はブルジョワ革命だったのではないか、という意見だった。革命論として興味深い。腑に落ちた。近世の「身分制度」が近代にどうなるのか、ということは部落解放運動とも深く関わりがある。

佐藤 若い世代でも、講座派的な日本特殊論に立つ論客が多いです。講座派型の特徴というのは、最初に結論があるんですよね。これは簡単で、戦前においては「32年テーゼ」というものが動かざる真理としてあった、それが戦後は常に「共産党綱領」というのが背景にある。不破時代の綱領になってからだいぶ緩くなってきたと思いますけれど、61年綱領までは明らかにそうだったわけですよね。だから何を話しても、要するにいくらサイコロを振ったって、道がいくつに分かれていても最後に行き着くところが京都三条大橋であるのと同じで。これはディベートの訓練にはなるわけですよ。その結論にどうやって持っていくのかという。だから、弁護士で共産党系の人って優秀な人が多いですよね。それはどういうことかとゆうと、結論をつけるためにどういう議論をすればいいのかという訓練を党内で徹底的に若い頃からしていく、これは法律家的な発想だと思うんですよ。
 それに対して、労農派というのはある意味では非共産党という一点において、持っている緩やかなネットワークだから、一方においては対馬忠行がいて、他方には向坂逸郎がいる。あるいは高橋正雄みたいな人もいる。だから、政治的なスペクトルからするとトロツキズムから 右翼社民までいる。こういうスペクトルですよね。その中でも、議論をしていくときには、一応その原則というのは、相手の言っているところの中ではこれというものがあったらそこは採用していくというようなところはあった。その先のところに何か新しいものを見出していこうとすると。それだから、ブントだって革共同だって、あるいは解放派だって、講座派と比べると労農派マルクス主義の影響を強く受けているわけですよね。津島忠行を通じてであるとか。
 でも、本来、「労農派マルクス主義」というのはソ連の影響は受けていない、要するに、ソ連を理想視していないはずなんですけども、やっぱりソ連に対する幻想というのはあったということ。それにプラス、「思考の鋳型」の問題ですよね。労農派はどっちかというと「日本特殊論」に立たなかったんだけれども、やっぱり、宇野派の馬場宏治さんなんかにしても日本型の経営を礼賛していくとかいろいろなかたちで、日本というこの文化であるとか、日本の伝統というところに回帰していっちゃうこともある。そのプロセスの中にいると、僕はやっぱり講座派思考は強いなと思ったんですね。
そしてざ、残念だったのは、労農派はソ連をモデルにしていなかったにもかかわらず、レーニンに対する神話というのを維持したところだと思うんですよ。それは裏返すとレーニンとエンゲルスの連続性も高いこともあるんですけれども。レーニンの中には、実践家であって、またそれもある意味では陰謀家的なところがあった。そのどこまでがタクティカルだったのか、例えば、『なにをなすべきか?』の中で、「宣伝」として、社会民主主義者は、マルクス主義は宗教であるということを言ってはいけないんだけども、「扇動」として構わないと。宣伝は、エリートを対象に新聞等で文字にするものだけども、それに対して扇動は大衆を相手に口頭で行うものである、だから悪く言えば、痕跡が残らないものだったらいい加減なことを言ってもいい、とにかく、常に二分法で味方を作ればいいという、マキャベリズムですよね。
 こういうものに対する根源的な批判というのは、本来はローザ・ルクセンブルグであるとか、あるいはカウツキーを通じてあった。特に重要なのは、ローザ・ルクセンブルクがああいう死に方して、悲劇のヒロインみたいな雰囲気があるので、その情緒的なところで、左翼の心をとらえたところがある。しかもあんまり長生きしなかったから、本格的にスターリンと対峙することもなかった。それだからローザについては一応言及できる、リープクネヒトとかそのへんについては言及できることはあったんだけれども、やはり重要なのはカウツキ―だと思うんですよ。カウツキーをあまりに簡単に日本のマルクス主義者は処理してしまった。それから、民族問題について考えるんだったら、オットー・バウアーとか、本来は労農派に近いオーストリア・マルクス主義にはほとんど視点が伸びなかった。気づいてはいたと思うんですよ、みんな。でもなんかやっぱりソ連に対する遠慮・抑制が働いて、共産党が政党なマルクス・レーニン主義者だということを言っているけど、マルクス・レーニン主義ということだったら、われわれもマルクス・レーニン主義なんだと、社会主義協会の人たちは思っていた。この意識が強すぎたように思うんですよね。マルクス主義だけれども、レーニン主義じゃないということを言えなかったわけですよね。(p226~229)

 1970年代後半の加古川市役所職員時代、労働組合の多数派であった(向坂)協会派の時代錯誤に付き合うことができたのは、振り返ってみるとなかなかの体験であった。
 当時、当人としてはあまり気にならなかったことではあったが、加古川での身辺周囲では、新左翼系の活動家というレッテルが貼られていたようであり、その噂も伝え聞いたことがあった。高校生の時、建国記念日制定への反対集会(中核派系?)が神戸であり、友人に誘われて参加したことがあった。その時、発言したので、大学に入学したら中核派のオルグの対象になっていたようだ。そんな情報が就職先の市役所関係に流れていたのかもしれない。
 町内の10軒ほど離れた家の学生が過激派だったらしく、公安がうろついていたことがあったように記憶している。

 日本のマルクス・レーニン主義が素通りしてきたオーストリア社会主義などは、村岡至氏など「フラタニティ」の関係者が研究されている。
 以前、村岡氏の「政治グループ稲妻」時代からの読者として「フラタニティ」に書いたことがある。成功している「道の駅」には「コミュニケーション力の優れた人物がいるにちがいない」と書いた。谷川雁のいう「工作者」ではないのか。「工作者」は左右・保革の別なく生活者として暮らしている。その人たちへの眼差しも労農派は弱い。

2023年10月27日