『灯し続けることば』大村はま(小学館.2004)残日録220530

1906(明治39)年―2005(平成17)年。国語教師、国語教育研究家。


「カンカンで、誰の手が止まりましたか」

 私が尊敬する芦田恵之助先生が小学校の訓導をなさっていた頃ですから、だいぶ昔のお話です。
 参観者のいる授業で、子どもに作文を書かせていたそうです。そのころ、鉛筆削りというのはありませんでしたから、教室の一角に鉛筆を削る箱があり、ナイフが備えてありました。作文を書いている子どもたちが、一人二人と鉛筆を削りに立ってきます。静かに立って鉛筆を削ります。ところがその箱の横に花瓶があったので、子どもは削り終わると、その花瓶をはじいていくのだそうです。カンカンと。どの子もどの子も。
 授業が終わると、参観者が先生のところへさっと寄ってきて、「先生、どの子もみんなカンカンといたずらをしていきましたのに、どうしてひとこともご注意なさらなかったのですか」と尋ねました。
 芦田先生は、「あのカンカンで、誰かの書いている手が止まりましたか」と静かに答えられたそうです。
「いいえ」と参観者が言うと、「それでいいではありませんか。私が注意でもしたら、みんなの手が止まってしまいます」。
 常識的で一般的な正しさ、こういうときはこうするのだという固定した見方にとらわれないようにしなければならない。本当に注意する必要のあるときは案外少ないものだ……。

 私は教師として、日々このお話を思い出していました。(P16~18)


教師の世界だけで通用する
言い訳があるようです

いい社会人の大人が、「一生懸命やったんですが、できませんでした(売れませんでした)」なんて行ったとして、それがなにかの言い訳になるでしょうか。「ばかなことを言うな」と叱られるだけではないでしょうか。どんなに一生懸命やろうと、結果が悪い責任はその人個人が引き受けなくてはいけないのですから。
 しかし、教師の世界だけで通用する言い訳があるようです。保護者を呼んで、「一生懸命指導しているんですが、お宅のお子さんはどうも成績が上がりませんね。もう少しおうちで勉強させてください」と行ったりしても平気なようです。保護者のほうも大変恐縮して、家に帰って子どもをしかったり、塾にいかせたりするでしょう。子ども自身も、「自分の勉強が足りないのだ」と思うようになっています。
一般社会と違って、相手を責めても向こうは怒らないという習慣になっているのです。教師というのは、そういう意味で、とてもこわい仕事です。勉強のことは、どこまでも自分の責任と思って指導を工夫するのが、専門職としての教師ではないでしょうか。
放課後、教室の窓が開けっ放しだったようなとき、警備員さんから「先生のクラスの窓が開けっぱなしでしたよ」と注意されて、「占めるように注意しているんですけれど」などと言うのも恥ずかしいことです。
開いていたという責任は逃れられません。注意したけれど、それが実行されなかったということは、自分の言い方が悪かったか、徹底していなかったからだと反省すべきことです。(P36~38)


しかられ上手であることが必要です

 勉強の途上にある子どもたちは、それに研修を続けていくべき教師たちは、「しかられ上手」であることが、必要なようです。悪い点、至らない点を、目上の方や指導者からズバズバ言っていただきやすい人であるというのは、成長発展のためにとても大切なことだと思うからです。
 人は誰でも他の人から悪く思われたくありません。「どうぞご批評を」と言われても、批評する側も、思い切り話せる相手と遠慮してしまう相手があるものです。ですから、お教えをいただく場合、厳しいおことば、本当のおことばがいただけるようなそういう人になっていなくてはならないと思うのです。そのことばを栄養として、自分を育てていかなければならないからです。
 なにかの作品を見ていただいて批評していただくようなとき、次のようなことを口にすると、本当のおことばがいただきにくくなります。
「わたしは一生懸命やりましたので」
 そう言わなくても、一生懸命やったことは作品を見ればわかります。なのに、発表者がまずそう言ってしまうと、悪いところが言いにくくなるものです。
 それから、「私なりに工夫して」という言い方もあります。そうですか、あなたなりにやったら、なにも批評する余地はありませんね、という気持ちになります。他の立場から見てどうかをうかがいたいのだから「私なりに」を言ってしまってはおしまいです。
「時間がなかったから、こうなんで」と、作品をかばうこともおかしいです。時間があれば、もっとよくできたというのでしょうか。時間があってもなくても関係ないのです。今個々にある作品について、批評をいただかなくてはならないのです。作品のつたなさを外側の事情によるものだと弁解されては、じゃ時間があったらすべてできつ方なんだな、批評しなくてもいいなという気持ちにならないでしょうか。
 このように自分で自分をかばうようなことばが過ぎると、批評のことばを封じてしまいます。自分を育てることばをいただけないようになります。
 それは、ことば」遣い、言い方の問題だけではないと思います。その根本となるのは謙虚な心、自分に対して厳しい心です。それが「しかられ上手」に繋がります。(P128~131)



2022年05月30日