『わかりやすい民藝』高木崇雄(d BOOKS.2020)残日録220308

著者は民芸店「工藝風向」店主。1974年生まれ。いい考察をしている。こういう本にもっと早く会いたかった。
一時期、日本民藝協会の雑誌『民藝』を購読していたことがあった。その当時は、柳宗悦はこう書いている、といった懐古趣味的な雑誌のように読めたので、購読は止めてしまった。備後屋の前店主から「民藝夏期学校」に行かれましたか、とたずねられて返事に窮したり、ギャラリー華の俵有作さんに「何かまとまったことができませんか」と問われたりしたこともあったのだが、仕事が忙しかった時期でもあったので、民藝好きにとどまり、もっぱら門前の小僧として今日に至っている。
良い本に出会えてよかった。

さて、今現在、「みんげい」という言葉が意味する対象は大きく三つ、それにオマケを一つ加えて四種類あるんじゃないかと僕は考えています。それは次の通りです。四つ目の「いかみん」は僕の造語なので、あとで説明しますね。

1 見出す民藝(選択・スタイルとしての民藝)
2 保存する、作り出す民藝(運動としての民藝)
3 「ものさし」としての民藝(暮らしの指針、可能性としての民藝)
4 その他(郷土品・お土産的な、〝いかみん〟としての「みんげい」)

まず一つ目は「見出す民藝」。
 柳宗悦とその仲間たちが選び、集めたものです。「李朝」と呼ばれる朝鮮王朝時代の陶磁器や、丹波(兵庫県)や、武雄(佐賀県)、沖縄やアイヌの人々が作り出したものなど、日本民藝館におさめられている、柳たちの目によって選ばれた品々です。いわば、「目で作られた民藝」ですね。この基準を守る役を、日本民藝館が果たしてきました。

 二つ目は、「保存する、作り出す民藝」。
 柳たちが先の品々を発見した当時、1920年ですら、社会は近代化が進み、すでに失われつつある仕事やものはたくさん存在しました。そんな価値ある仕事を今に伝えるため、柳たちが始めたムーブメント、つまり民藝運動に関わった人々は協力を惜しまなかった。また、その中には、かつての優れたものを参考に、新たなものを作り出そうとした人々もいました。
 たとえば、沖縄の染め物・紅型に刺激を受け、型染めの仕事を行った芹沢銈介や、イランの絨毯などを参考に、倉敷で「ノッティング織椅子敷」を生み出した外村吉之介、松本で家具作りの仕事を立ち上げた池田三四郎、河井寛次郎との出会いをきっかけに民藝運動に参加した若者たちの窯・出西窯などをあげても良いでしょう。
 つまり二つ目は、このような、民芸運動に関わった人々の仕事に対する呼び名としての「運動としての民藝」です。この役割を主に担ってきたのが日本民藝協会だったと言ってもいいんじゃないでしょうか。

 そして三つ目の、「ものさしとしての民藝」。
 先にあげた二つの〈民藝〉の立場から選ばれ、生み出されてきた品々や、民芸運動を主導した人々の言葉をベースとして、あらためて〈民藝〉を読み直し、今の社会や個人の生活、暮らし、自分たちが行っていることの指針として定義し直す試みとしての〈民藝〉です。「民芸の可能性」はどこまで広がるのか、を考える試みといってもいいでしょう。
 たとえば、今回のトークイベントもまた、D&DEPARTMENT PROJECTの活動を、21世紀における民藝運動の新たな形として考えなおす機会でもあるはずですよね。そういったことです。だからこそ、「ものさしとしての民藝」を考えるためには、一つのモノだけじゃなく、建築空間や風土に関する考察も必要ですし、歴史や言葉、思想なども重要になってきます。

 そんな「可能性としての民藝」を語るための基礎となるキーワードは、きっと次のようなものが挙げられると思います。
 「無名」「用の美(?)」、あえて「?」をつけて書きましたが、その理由はのちほど。「不二」「手仕事」「暮らしが仕事、仕事が暮らし」、これは河井寛次郎の言葉ですね。「無事の美」「貧の美」「平の美」なども〈民藝〉を語るときよく出てきます。「直観」もよく言われますね。「直下に観よ」、ですとかね。「今見ヨ イツ見ルモ」「見テ知リテ ナ 見ソ」といった柳の短い詩(心偈こころうたと呼ばれます)もよく使われますね。

 で、こういった言葉をテコにして、たとえば無印良品の品や、柳宗理のデザインしたヤカンであったり、日本民藝館の館長となった深澤直人さんの仕事、「小道具坂田」の坂田和實さんの選ぶ古いものや、「生活工芸」と呼ばれるムーブメント、もちろんD&DEPARTMENT PROJECT、あと花森安治が始めた『暮らしの手帖』なども、「民藝的」かどうかを考えられる時代となっています。
 「ふつう」「シンプル」「無名性」「飾らない」「素朴」「数もの(生産量の多いもの)」「ローカル」「暮らし」「手しごと」である、といった要素が含まれていると、〈民藝〉と比較されやすいですね。
 あと、ちょっと過去のデザインでいうと、ブラウンの電卓やアアルトの家具、チャールズ・イームズの仕事も民藝に近いんじゃないの、という人もいますし、安い値段で大量に普通の物を作っていれば〈民藝〉だったら、ユニクロの服も〈民藝〉では、という人もいます。個別の話については、2章で深めますので、お待ちくださいね。

いずれにせよ、暮らしのあり方からデザインや哲学といった領域に至るまで、広く語られるようになった〈民藝〉ですが、その用いられ方はさまざまです。とはいえ今回、どの〈民藝〉が正しいか、間違っているのかという話しをするつもりはありません。むしろ、これら「ものさしとしての民藝」の根っこがどこにあるのかについて検討することの方がよほど需要かなあ、と僕は思っています。

 さて、四つ目の「いかみん」(笑)。
 「見いだす民藝」「保存する、作り出す民藝」「『ものさし』としての民藝」の三つが柳たちが考え、実践してきた意味での「民藝」と、その発展形です。ただ、実は、それ以外にも「みんげい」が存在します。
 存在します、というか、大多数の人にとっては、こっちの意味の方が強いんじゃないでしょうか。雪も降らない地域なのに、必然性もなく傾斜の急な屋根をもつ合掌造りになっていて、白い漆喰の壁で梁が太くて黒光りしている、みたいな飲食店の建物なんかが国道沿いに時々ありますよね。
 ああいう建物を「民芸建築」と呼んだりします。困ったことに、ものであれ空間であれ、和風で素朴な感じがすると、「民芸調」と呼ばれてしまうんですよ。……
 (略)
 ということで、これは最初に説明した、三つの〈民藝〉とは関係を持たない「みんげい」ですので、僕は「〝いかにも〟民藝みたいなモノ」を略して「いかみん」と呼んでいます。
(P18~27)

 柳宗悦において、

・『白樺派』を通じて得た「友情」に基づく、フラットに成立する人間観。
・「民」という希望を持っていた時代。
・「○○にもかかわらず」という思考の枠組み。
・朝鮮で浅川兄弟とともに出会った、これまでの常識と異なる
 矛盾とも思えるような環境から生まれる美と「友人」「民族」。
・世界を均一化する「帝国的美術」へ抗う「友人」との連帯としての「工藝」
・生活のリズムが表出され、長い時間が濃縮された結果生じる
 「工藝的なるもの」。

これらがすべて一体となって、「民藝的工藝」としての〈民藝〉は、成立しているのです。ですから、「民衆的」とは単に「地方」や「田舎」、まして下層階級の仁といった意図を含んだ「庶民・大衆」を指す言葉ではありません。むしろ、風土に従い合理的に仕事をする人々であり、また、観念的でない、土着のモダニズムとも呼びうるひとつの合理性をもった仕事を生きる人々に対して、「民衆的」という言葉を託した、ということです。

さらにまとめると、柳が「民衆的工藝」としての〈民藝〉に見出したものは四つあります。

1 頭の中で作り上げられた観念的な美ではない、ということ。
2 土地に暮らす人が風土の中で、必然的に生み出す品。
3 長い期間使われてく中で、土地固有の模様、
リズムを持つようになった品。
4 忘れてはならないのは、権威やブランドといった記号に関係なく、
もの自体に存在する「美」

 さて、ここで「合理性」「モダニズム」、という言葉を使ったことには理由があります。往々にして民藝は古いものを守ることを中心とする、反近代的な運動、かんがえ方であるかのように思われることが多いのですが、必ずしもそうとは言えないからです。むしろ、当時、彼らほど近代主義の先を走っていた芸術運動はなかったのではないかと僕は思っています。
(P115~117)

1 〈民藝〉は保守的な運動ではない。
2 むしろ近代主義者とも呼びうる人たちが主導した。
3 当時の他の芸術運動と同じく、
  カウンターカルチャーとしてうまれた。
4 制度に抵抗する「友人」から「民族」、
して「民衆」を結びつける思想だった。
5 〈民藝〉が生まれる背景には、
  「それぞれの土地に暮らす人」が育てる「工藝的な時間」がある。
5 柳宗悦は〈民藝〉に湛えられた「美」に、
「近代」という枠組みを超えるものの具体性を見出した。
7 「○○だから民藝」と言えるものはなに一つない。

 この一番最後が大切です。これによって、〈民藝〉は自分自身を自由な存在とすることができる、はず、だった。歯切れが悪いですね(笑)。なぜ歯切れが悪いかといえば、当然疑問がわいてくるからです。
 〈民藝〉が「美術」→「工藝美術」→「工藝」というヒエラルキーを無効なものとする試みであったにも関わらず、なぜ現在もなお〈民藝〉は「工芸」の一分野でありつづけ、〈民藝〉は「手仕事」や「無名の職人」にこだわりつづける、いささか偏屈なジャンルだと見なされるようになってしまったのでしょうか。
(P126~127)

 著者は「○○だから民藝」という誤解の具体例として、日本民藝協会のウェブサイトを引き合いに出します。

1 実用性。鑑賞するためにつくられたものではなく、なんらかの実用性を供えたものである。
2 無銘性。特別な作家ではなく、無名の職人によってつくられたものである。
3 複数性。民衆の要求に応えるために、数多くつくられたものである。
4 廉価性。誰もが買い求められる程に値段が安いものである。
5 労働性。くり返しの激しい労働によって得られる熟練した技術をともなうものである。
6 地方性。それぞれの地域の暮らしに根ざした独自の色や形など、地方色が豊かである。
7 分業性。数を多くつくるため、複数の人間による共同作業が必要である。
8 伝統性。伝統という先人たちの技や知識の積み重ねによって守られている。
9 他力性。個人の力というより、風土や自然の恵み、そして伝統の力など、眼に見えない大きな力によって支えられているものである。

これらを満たさなければ民藝品ではなく、ゆえに濱田庄司や河井寛次郎などが作り出すものは大量でもない「作家もの」だから、民藝品ではないはずだ、などと言われてしまう。また、日本民藝館におさめられている柳の蒐集品には、朝鮮王朝時代の支配階級「両班」が使っていた道具や絵画などもありますが、これらに対して、支配階級のものだから「民衆的」とは言えないではないか、といった批判もよくある話です。ほか、よくある誤解としては、「手仕事だから民藝」「民藝と言っているのに、値段が高い」「柳宗理デザインの製品は工業製品だから、民藝ではない」などがあげられるでしょう。
なるほど、〈民藝〉が、「○○だから民藝」という条件によって成立するものならば、どれも確かに正しいでしょうし、柳が書いた文章を言葉通りに読んでいく限りには、条件としか思えない箇所も存在します。ただ、これまで述べてきたように、柳が当時なぜこれらの言葉を用いなければならなかったかを考え、調べることによって、そのなぞは容易に解けていきます。
柳が当時の、帝国化にともない一元化する社会や、「帝国工藝部」「工藝美術家」といった「制度化された美」に抗うための批評として文章を書いていたのだと考えると、また、真実や美が順接ではなく逆説によってこそ示される、と考えた柳の枠組みからするならば、これらは条件ではなく、むしろ「○○にもかかわらず」、「○○ではなく」という、否定を通して語っている、と受け止めなおされるべきなのです。
ですから、前掲の条件をあえて否定によって記しなおすならば、次のようなものとなるでしょう。

1 非鑑賞性。鑑賞を目的として作られたものではない。
2 非有銘性。自らの名をあげるために作られたのではない。
3 非単数性。希少価値を求めてつくられたものではない。
4 非高価性。高価であること自体を求めてつくられたものではない。
5 非趣味性。美的趣味の表現のために特化された技法を用いていない。
6 反グローバル性。どこにでもある形を志向しない。
7 反孤立性。自分一人で作品を作り上げているなどと思い込まない。
8 反新奇性。思いつきで作る形や色、模様などではない。
9 非自力性。個人の力、個人の生という、限られた力や時間だけに頼らない。

そして無論、仮に今提示したこれらの条件もまた、固定化されてはならないのです。つまり、1から9までのすべての条件を兼ね備えているの「だから」民藝品、とはならない。柳が次のように書いている通りです。文中の「こと」とは条件、〝だから〟〝それで〟などの順接を意味します。

ものの美しさを見ます時、「こと」を通さずに「もの」を見て参りましたので、個人とか、工人とか有名とか無名とかの区別なく、ただ率直に見て参りました。
(P134~138)

 長い引用になってしまったが、なるほどと納得できるし、いろんなモヤモヤしたところが少し分かりだした気がする。
「数もの」でも気に入った品は欲しくなる。
 「作家もの」は、今のところ下田の土屋典康さんと益子の石川雅一(はじめ)さんの作品が中心で、こんなに集めてどうするの、という収納に限りあり、の状態だ。
ヤフオクを覗くと、何ともいやはや、終活の安売り・投げ売り、という有り様。日本経済の低迷を反映している。コロナ禍で中国からの需要も少ないのだろう。
そういえば、青森のMさんが亡くなってずいぶん経つ。たくさんのコレクションはどうなっているのだろう。他人が心配することではないが、一月にも某氏のコレクションの行き場がなくて、という話を聞いたことを思いだした。

2022年03月08日