「労農派」の流れ 残日録210426

『ニッポニカ』の「講座派・労農派」の解説によれば、
第二次世界大戦前に、日本資本主義の特質をめぐって行われたマルクス主義者間の論争、すなわち日本資本主義論争において対立した二つの思想的理論的集団。
 講座派とは、野呂(のろ)栄太郎を中心に編集され1932年(昭和7)から1933年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』、とくに同講座所収の論文をまとめた山田盛太郎(もりたろう)『日本資本主義分析』(1934)と平野義太郎(よしたろう)『日本資本主義社会の機構』(1934)の説を信奉する理論家集団をいう。日本資本主義の構造的特質をその軍事的半封建的特殊性に求め、とくに絶対主義的天皇制(検閲の制約のため明示的には語られていないが)と半封建的土地所有制の役割を強調するのが講座派理論の特徴である。そのような日本資本主義論は『講座』刊行前から、野呂栄太郎などの日本共産党系の理論家によって主張されていたが、『講座』とくに山田、平野の論稿は、それを全面的に展開・深化させたものであって、日本の社会科学全体に強い影響を与えた。なお『講座』刊行の直前に発表されたコミンテルンの日本問題についてのテーゼ(三二年テーゼ)の日本認識と、『講座』の基調とはほぼ一致していた。
 労農派は、日本共産党およびその上部組織コミンテルンの現状分析や政治路線を批判し続けた社会主義者のグループであり、その名称は、山川均(ひとし)、猪俣津南雄(いのまたつなお)、荒畑寒村(あらはたかんそん)などが中心となって1927年(昭和2)12月に創刊した雑誌『労農』に由来する。共産党と直接間接に結び付いていた講座派と違って、労農派は特定の政治組織との結び付きをもたないルーズなグループであり、その結束は固いものではなかったが、山川、荒畑のような古い社会主義者を中心とする広い人脈をもっていた。共産党の政治路線や現状分析に対する労農派的立場からの批判は、山川の共同戦線党理論や猪俣の日本政治・経済論として1920年代末から展開されていたが、『講座』の刊行は、それに対する労農派人脈に属する学者からの批判をも活発にし、山田、平野の日本資本主義論に対しては向坂逸郎(さきさかいつろう)、高橋正雄、岡田宗司(そうじ)などが、羽仁(はに)五郎や服部之総(はっとりしそう)の明治維新論やマニュファクチュア論に対しては土屋喬雄(たかお)などが、さらに農業問題に関しては櫛田民蔵(くしだたみぞう)、小野道雄などが批判の論陣を張った。
 1930年代前半の論壇をにぎわせた両派の華々しい論争は、それぞれの主要メンバーが、講座派は1936年に「コム・アカデミー事件」で、労農派は1937年および1938年に「人民戦線事件」で検挙されたため、論壇からは消えていったが、日本のマルクス主義者を二分した講座派・労農派の二つの流れとその対立とは、第二次世界大戦後にも引き継がれていった。
[山崎春成]

とある。
石河(いしこ)康国『労農派マルクス主義——理論・ひと・歴史 上・下巻』は向坂逸郎の流れにある社会主義協会(向坂派)からの著作である。図書館で借りて読んでみたが、我田引水の印象が強い。それに、マルクス・レーニン主義の立場にあるから、労農派から逸脱しているとみることもできる。大内秀明・平山昇『土着社会主義の水脈——労農派と宇野弘蔵』の方が労農派を知るうえで適書と言える。

非転向を貫いた労農派の矜持 『真説 日本左翼史』池上彰・佐藤優.講談社現代新書.2021
池上 そのように、ソ連型の一党独裁型の社会主義とは異なる社会主義の可能性が東欧諸国を中心に世界的に模索されていた時期に、日本でも山川均や向坂逸郎など、戦中は息を潜めていた、非共産主義系のマルクス主義者たちが再び活動の場を得るようになりました。
佐藤 そうです。先ほど少し話に出ましたが、その多くが雑誌『労農』の同人であったことから「労農派」と呼ばれているグループですね。彼ら労農派のマルクス主義者には学者が多く参加していたこともあって、彼らが組み上げた革命理論は日本独自の事情や国際状況までしっかり考慮されているという点で共産党よりも精密なものでした。
 徳田球一や野坂参三がアメリカ軍は解放軍であり、彼らと手を携えることで平和革命ができると無邪気にも思い込んでいる時期に、労農派のマルクス主義者たちは、米軍占領下での平和革命など不可能であることを早々に見抜いていました。
 しかも労農派時は、共産党と違って戦時中に転向していないという特徴があります。
 彼らが転向せずに済んだのは、弾圧下にあっても自分たちの力で食いつないでゆく術を苦労しながらも見つけることができたからです。向坂逸郎は第一次人民戦線事件(一九三七)によって九州帝大の教授を辞任させられた後は改造社の『マルクス=エンゲルス全集』の編纂・翻訳に取り組みましたし、投獄・保釈を経て言語活動を禁じられてからも、小さな畑を耕して自給自足生活のかたわら匿名でドイツ語の書籍を翻訳していました。
 彼が戦時中に匿名で訳した『独逸文化史』(G・フライターク)は全四巻のうち一巻が一九四三(昭和一八)年に中央公論社から出ています。
 向坂自身が後年に書いた手記によれば、実は二巻目の翻訳も終えていて、ゲラの構成もすべて終わっていたのに発刊直前で出せなくなったそうです。出せなくなった理由について、中央公論の編集者は何度尋ねても絶対に答えなかったそうですけどね。
池上 略
佐藤 向坂のような社会主義者に仕事を発注することでサポートしていたからこそ中央公論社は横浜事件でやられてしまったのだ、という雰囲気は伝わってきますよね。
 ただ『独逸文化史』の邦訳が出せないとなると原稿料が貰えないので向坂としては困るわけです。大いに困るのですが、向坂が凄いのはここでまた腹をくくるのです。「もうこの国では翻訳では食っていけないのは分かった。だったら新しい研究をして学びなおしだ」と決心した。そして農業書を取り寄せてジャガイモの作り方を学んだのです。
 いい芋をたくさん収穫するには穴をどれくらい掘ればいいのか、堆肥をどうやって作ればいいのか、すべてをイチから学んで、奥さんと馬糞を拾いに行った話なども後年書いています。
 あるいは空襲があると、空襲で焼けた家までリュックサックを担いで行って、その中にいっぱい灰を詰めてきて、その灰を肥料にしてイモを作ったこともあったそうなのですが、近所の農民たちは向坂のそのイモ作り見ながら笑ったそうです。「そんな深く掘って大丈夫か?」とか「葉っぱの芽が出過ぎるからろくなイモができないぞ」などとバカにされたと言うのですね。
 でも収穫の時期になってみると、向坂のイモ畑は普通の畑の倍もイモの収穫できたので、「日本の農業問題は、非科学的なことだ」なんて憤慨している。そのくらいイモ作りに熱中してやっていたのですよ。
 (略)
 山川均も妻の山川菊栄と藤沢市でウズラの飼育場を営みながら言論活動を続けていました。このように労農派は、どんな体制にあっても生き延びる道はあるはずだと信じて、生活の糧を自力で確保することによって転向を免れたひとたちなんですね。(P73~75)
 といった姿勢で戦中を乗り越える。

 戦後、講座派は日本共産党、労農派は戦後結成される日本社会党の理論的支柱になる。
ウィキによると、日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。
(という雑居ビル状態にあった。—明定)
1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。
三池争議を指導した社会主義協会の向坂逸郎の影響が大きく、労農派のなかでも社会主義協会、向坂逸郎の発言力が増す。
1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。
この「道」によって改良主義的性格は退けられ、階級政党としての側面が強く出される。
1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。
とある。その後、社会党は1996年に社民党に改称するが、党勢は衰退していく。

 労農派の大内秀明は『土着社会主義の源流を求めて』大内・平山昇.社会評論社.2014で、社会党の左右両派の対立について、ともに戦前の労農派の流れをくむ論客である、右派の森戸辰男、左派の稲村順三の論争(一九四九年)が、以降の論争の原型となった、と言われています。対立の論点を整理して、戦前の労農派との関連を確認しておきたいと思います。(p372~375)として、
3.森戸・稲村論争とその対立点
 森戸・稲村論争については、両者それぞれ関連した論考もありますが、論点が具体的に提起され、第四回の党大会の運動方針を巡っての論争の性格上、勝間田清一の司会で行われた対談を取り上げましょう。戦前、ともに労農派の論客だった点でも、両氏の対談は興味深いといえます。対談は、一九四九年五月二四日に当事者の総括のために行われた座談会です。(初出は『社会思潮』1949.7) 司会の勝間田による問題提起は、まず敗戦と占領下の混乱の中で、共産党を除く戦前の諸潮流の大同団結が優先、党の目標、性格や路線については、十分な論議のないままの出発だった。民主主義の憲法、社会主義的な政策、それに国際的な平和主義、この三点だけの大まかな合意だった。しかも、短期間で片山内閣による政権党になったが、連立政権の足並みの乱れなども加わり、改めて党の性格や路線を深めなくてはならない。また、目指す社会主義への移行についても、当初は一時的に実現の幻想が一部に生じただけで、占領下で共産党との関係からも、移行の条件は見当たらない点も強調されました。
 両者の見解は、連立政権に対する評価と反省で別れました。稲村は、連立に批判的で反対、論拠は(1)ブルジョワ社会での階級闘争から、ブルジョワ政党との連立はあり得ない。(2)同時に共産党に対する批判も不十分であり、(3)まず革命方式を中心に党の主体性を強化する。こうした提起に対し、森戸は連立政権の閣僚だったこともあり、功罪両面を指摘する。その上で、(1)単なる反対党でイデオロギーを主張するだけでなく、政策を具体的に提起しなければならない。(2)マルキシズムとの」関係では、階級闘争や階級国家論について、現実的に考え直す必要があり、(3)関連して革命方式ついても、平和革命を理論的に深化させる必要がある。さらに(4)むしろ日常的な運動や大衆闘争を重視しなければならない。
 稲村は、社会主義の目標として、「社会民主主義」についても、マルクスのゴーター綱領批判を参考にして、社会主義を民主主義に解消してはならず、「この際我々は、社旗主義の政党であるということを何よりも明確にして、いわゆる社会主義プラス民主主義の政党、社会主義者プラス民主主義者の共同政党だというな、こういう意味は持たせない方がいよい」と主張する。それに対し森戸は、ドイツを中心に社会改良主義、社会民主主義、社会主義の思想史的変遷を説明した上で、社会改良主義に対立して「実はマルキシズムの党派が社会民主主義とずっと言ってきたので、ロシアのボルシェヴィキがわじゃれて社会民主主義の多数党となるまでは、大体マルキシズムの政党が社会民主主義の政党と言われておったわけです」。森戸は、ここで社会民主主義をボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義に対抗するものとして位置づけ、堺・山川の正統的マルキシズムである労農派の立場を説明しています。こうした森戸の説明については、勝間田も「社会民主主義政党としての社会党の革命プログラムを作っていくということは、当然といわねばならぬことになりましょうね」と両人に同意を求めています。
 そこで革命の内容、方式を巡っての議論に進みますが、森戸は「社会主義の中心点は経済組織の変革、資本主義的な経済組織が社会主義的な経済組織に変わることであって」、その上で「政治的な面から言っても、政治の一つの場面に、権力の獲得というか、それが集中されないで、中央の政治もあり、地方の政治もあり、また政治の面と並んで経済の面、文化の面等の新しく社会主義を作ろうという力が浸透して行く。」「民主的な変革というものが一時的なものではなく、ある程度漸進的であり、段階的であり、したがってまたそれは建設的、平和的なものであるということになるのではないか、と僕は思っておるのです」として、稲村に同意を求めています。ここでの森戸の主張もまた、明らかにマルクス——モリス、そして堺・山川の労農派社会主義の立場から、ロシア革命を教条化したボルシェヴィズム=マルクス・レーニン主義を批判し、プロレタリア独裁、集権的な政治革命方式と対立する社会変革の内容、その方式を提起していることが解ります。
 こうした森戸の提起に対し、稲村も正面から対立することは避けつつ、「ぼくはもう少し違うのですが、民主主義とゆうものと、平和とか暴力とかいうものに関する考え、ことに平和とか民主主義とかいう考え方については、もっとも広くぼくは解釈したい」と述べ、階級対立の面で支配階級が、「必然の形で社会主義へ向かって資本主義の基礎が動いていくのを、これをどうしても食いとめよう、チェックしようとするために集中的政治権力を常に用いておる。したがって、いかに経済的に最高に発達しても、これをチェックしている政治力というものを除去しない限り、日本は結局において大きな矛盾を蔵しつつも資本主義の段階を出ることはできない。ぼくはそう考える。それで質的転換をするためには、チェックするものを取除いて、そうしてそれを推進する新しい政治権力というものが生まれなければならない。——革命という以上は一つの質的返還を表徴するものでなければならぬ」。
 この稲村の主張は、マルクス・エンゲルスのイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観、つまり単純な階級闘争史観が前提され、資本主義はブルジョアジーとプロレタリア=との非和解的な階級対立が不可避である。ブルジョアジーは階級支配のために国家権力を利用し、近代ブルジョア国家は階級支配の道具として、ブルジョア独裁の権力支配を進めている。したがって、体制変革にはプロレタリアによるブルジョアからの権力奪取が必要であり、ロシア革命方式のプロレタリア独裁が不可避だった。その点で、左社綱領、そして右社綱領ボルシュヴィキの暴力革命論が前提されざるを得なくなるが、稲村氏も一方で議会主義や平和主義を前提する以上、次のように弁明せざるを得なくなる。「これは暴ボルシェヴィキ和といっても、実を言うと、いかに平和的にやったとしても、やはりある程度の行使とうもんはやむを得ぬ場合もあり得るんだね。なぜかというと、こっちが行使しないでも、敵が行使する場合がある」、いわゆる「敵の出方論」ですが、「ただ力は議会を通じて合法的にやるのだ。これが僕は、やはり我々の言う民主主義的、平和的という解釈になると思う。そういうふうな建前から、僕らはうかと言うと、一応やはり政治権力は確保するというある時期なり、段階がある」。稲村のここでの主張は、かなり譲歩した表現ながら、ブルジョア独裁に代わるプロレタリア独裁、権力奪取による革命、中央集権的な体制、そして上からの体制変革としての革命、こんな図式が透視されてきます。

 大内は「戦後の日本社会党の左右の対立について、一般的に左派の立場が「労農派マルクス主義」と系統づけられているのは必ずしも正確ではないのではないか? むしろ、右派を代表する森戸の立場の方が、堺・山川に代表された労農派社会主義の継承とみるべきでしょう。左派は、基本的にボルシェヴィズムの教条に近い立場にシフトし逆転してしまい、それだけに議会主義による平和革命論との間の矛盾に苦悩をつづけることとなったと思います。」と評価している。(p377)
 「第二次大戦後の冷戦構造は、すでにみたとおり日本では、1951年のサンフランシスコ講和・日米安保条約により定着します。そして、それへの対応を巡り、左右社会党への分裂につながりました。左右両派は、それぞれ左社綱領、そして右社綱領を策定して対立しました。すでに紹介した森戸・稲村論争による左右の対立を受け継ぎ、左社綱領は稲村が戦前の学者グループの一人だった向坂逸郎(九大教授)らと協議して原案策定、右社綱領は森戸案を受けて、河上民雄などが草案を策定したといわれています。この左、右の社会党の綱領は、森戸・稲村論争と比較しますと、一方の左社綱領はマルクス・レーニン主義の教条的理論と議会主義の平和革命論、他方の右社綱領は、マルクス主義の批判に向かい、西欧社会民主主義から改良主義の傾向が強まりました。この時点で、戦前からの堺利彦・山川均のマルクスーモリスの「正統派マルクス主義」の系譜が消滅した感が強まりました。むしろ左右社会党の対立は、米ソ二つの世界の対立という冷戦構造を、日本的な特殊性を反映した形での対立だったとみるべきでしょう。」、「このように戦前の労農派社会主義の伝統が、戦後この時点で消滅したと判断するについては、いろいろな事情が考えられます。」(p388~387)としている。

 労農派の流れは今どこに残っているのか、どう広げていくのか、について考察したい。

2021年07月26日