三浦つとむの「漱石論」から

吉本隆明「三浦つとむ他」(『追悼私記』所収)



 このなかで吉本は、

おれはこの人の漱石を論じた文章がいちばん好きだったなあ。漱石は文学とは何かを科学的につきとめていって、じぶんのつきつめた(あるいはつきつめきれなかった)文学の理論をじっさいに作品で試みるために小説をかきはじめたという見解を、漱石の文学の動機にあげたのは、おれの知っているかぎりみうらつとむだけだよ。おれはおもわずハッとしたね。これはものすごい卓見で、ほんとうにそうだったかもしれない面を、漱石の文学はもっている。漱石の作品はどこかしらに<問題>小説(プロブレマテック・ノベル)の面があって、それが講談調になってみたり、推理小説風になってみたり、観念の長口舌を登場人物がやってみせたりというところに、あられている。意識的か無意識的かは別として、文学理念があって創作はそれをためしてみるための手段だという面があったからだといえなくない。三浦つとむのこの漱石観には、謎解きの論理に熱中したところから、しだいに哲学に踏み込んだじぶんの体験と、芸術理論家としての知見とがとてもよく発揮されていた。三浦つとむの文章の中でいちばん文学的な文章だったとおもうな。(P96-97)



とある。



三浦つとむ「漱石のイギリス留学をめぐって」から

  私は漱石の経歴に関心がなかったから、『文学論』の著作があるとは知っていたが、小説家が文学論をやったものだと思って目を通そうとはしなかった。小泉の文章で、自分がまったく誤解していたこと、文学理論家が小説を書くようになってのだと知って、はじめて『文学論』を読み、またそれまで注意を払わなかった漱石の後期の小説を読みなおしてみた。われわれは、彼が英文学科に入ったという経歴だけを見て、小林秀雄が仏文科に入ったのと同視してはならないのである。私は科学者の一人として云っておきたいのだが、科学の方法論に関心を持つのは科学者の中でも人まねの科学者ではなく創造的な学者の態度なのである。これは出世主義や優等生根性とは異質なばかりでなく、若い時にこのような傾向を持った人間は一生それを持ち続けるものである。こういう詩誌の人間が、英文科へ入って、彼の語っているような英文学の講義に満足できたとしたら、それこそおかしな話である。彼は英文学を専攻する人間として、「英文学はしばらく措いて」「文学とは何いうものか」を理解することを欲した。これは試験にいい点をとりたいからではない。英文学を理論的に把握するためには、文学の本質論がなければならなぬというのが漱石の方法論的発想だったのであり、このように本質論から出発して理論を体系的に組み上げていこうというのが、創造的な科学者のとらねばならなぬ道なのである。

(略)

……漱石のやりたかった事業にくらべれば、発表した諸作品は「下らない創作」でしかなかった。高浜虚子あての手紙に、「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さえできればそれだけで天に対しても人に対しても義理は立つと在候。」と書いたくらい、教師をいやがっていながらも、自分の創作に対してはきびしい評価を加えていたわけである。……その事業は挫折したけれども、誠実で勇気のある科学者としての漱石の態度は、「下らない創作」にもつらぬかれることになった。「何か書かないと生きてゐる気がしない」人間の、これまでの文学とはどういうものなのかの本質的な探究が、







三浦つとむ「夏目漱石における『アイヴァンホー』の分析」から

……漱石の東大での文学論の講義は明治三六年九月~三八年六月であるから、「間隔論」はおそらく三八年春ころの講義であろうが、この部分は講述を不満として新しく書き直したものであるから、『アイヴァンホー』の分析が三八年の講義でどのように語られたか、三九年の新稿でどのように改められたか知るよしもない。ただ私がこの分析を読んだとき想い浮べたのは、三九年四月に公けにされた『坊つちやん』の一場面であった。終り近く、山嵐と坊っちゃんが宿屋の二階に陣取って、角屋の入口を見おろし、赤シャツが泊りにやってくるのを「一生懸命に障子へ面をつけて、息を凝らして」その穴からのぞいて待っている部分である。赤シャツは来るかも知れないし、来ないかも知れない。私たち読者にとって未知数であるばかりか、二人にとってもまた未知数である。「もし赤シャツが此処へ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加へる事は出来ないのである」! だがついに来た。赤シャツが野だいこといっしょに、二人の悪口をいいながら角屋に入っていく。二人は「おい」「おい」「来たぜ」「とうとう来た」と声をかけ合う。この〈表現主体〉を読者は〈追体験〉して、ついに天誅を加える機会が来たことを知った二人といっしょに、読者もまた興奮するのである。Rebecca は戦いを見おろしたが、山嵐と坊っちゃんは敵が来たのを見おろしてから戦いをはじめようというわけである。

三浦『現実・弁証法・言語』(P297-298)



 これについて吉本は講演のなかでもふれていて、その記録が「ほぼ日刊イトイ新聞」の「不安な漱石「不安な漱石――『門』『彼岸過迄』『行人』」である。三浦の説をつかって「漱石の作品の『推理小説性』」を論じている。



ぼくの知っている人で、漱石の小説というのは、普通の作家が書く小説と違って、初めに文学についての理論を、文学論ですけど、文学についての漱石流の理論があって、その理論を確かめたいので、確かめるために作品を書いたというふうに言える面があるんだということを、ぼくが知っている限りでは三浦つとむっていう、亡くなりました哲学者がいるんですけど、三浦つとむだけがそういうことを言っていると思います。

20200215

2021年01月09日