気仙沼の図書館長だった菅野青顔

敗戦以降の図書館人を振り返ると、伝説の時代があり、英雄の時代があり、群雄割拠の時代があった。今は茶坊主の時代だ。と研究集会で言ったら、少し受けた。

その伝説の時代の図書館人の一人に、気仙沼の図書館長だった菅野青顔という人物がいる。

この人は気仙沼の水産加工業を営む家の倅で、1903(明治36)年、気仙沼生まれ、小学校を終えると、気仙沼水産講習所(のちの気仙沼水産高校)にすすんだ。17歳の頃、突然「書物三昧」の生活に入り込み、仕事をしなくなる。結婚するのだが、やがて家業は倒産、家屋敷を手放すことになる。青顔は「書物三昧」の世界に入り、生計は青顔夫人やへ子が支えることになる。その後、大気新聞の記者を経て、1941(昭和16)年、気仙沼町立図書館の事務嘱託職員、1949(昭和24)年8代目の図書館長となる。1978(昭和53)年7月まで館長を続け、その後は読書三昧と三陸新報『萬有流転』の執筆生活に入る。1990(平成2)年、逝去。

菅野青顔については青森の三上強二氏から聞くことはあったが、1970年代の図書館の潮流とは異質の人物であったので、後任の荒木英夫館長にもお聞きする機会を逸していた。

菅野青顔追悼集『追悼・菅野青顔を語る』(1990)の中で、荒木氏は以下のように書かれている。(P352~354)

青顔館長は図書館の蔵書は権威あるものでなければならないとの信念を持ち、図書館を利用すれば、中央の学者にも負けない研究が出来るような図書館を気仙沼につくることが念願であった。だから私らに良くいったものだ。「せっかく文献を集めたのだから、東大や外国の学者が頭下げて教えを乞うくらいの研究をしろや、それが図書館の権威を上げることだよ」と。

青顔館長のもう一つ素晴らしいことは、図書館の仕事に誇りを持ったことであろう。とかく行政体の中で、図書館とは閑職と思われ、コンプレックスを持つ人も多いが、氏にはそれが塵ほども無かった。「人まねの出来る動物はいても、本を読む動物は人間だけだ。本も読まず、図書館に関心ない人間は、相手が誰であろうと俺には猿か熊くらいの価値しかない」と言い、また初代国立国会図書館長金森徳次郎氏が、「人生を顧みて、お前の生前やった良い事は何かと閻魔に尋ねられたら、恥入ることばかりだ」との意味の随筆を書いてあったのを評し、図書館の親分をやったくらい立派なことはない、それで文句を言う閻魔なら、頭を殴りつければ良い、と言ったものである。

特に念願の新図書館を落成させ、昭和四十四年度の北日本図書館大会を開催した時は、閉会に当たり、「図書館職員は〝世界至高最大な仕事〟に誇りを持ち、推進したい」と挨拶し、参加者に感銘を与えたものであった。

新館落成後は、実務は専ら職員にまかせ、その人間的魅力と政治力で作られた二十余りの寄贈文庫(市民有志から年間一定額の寄付申し出を受け、図書の選定は館長にまかせる)を基礎に基本蔵書の充実に力を注いだ。

この頃から、戦前以来の教養主義中心の読書に対し、社会一般人に根を下ろした図書館活動が展開されてきたが、他方それに疑問を表明する渋谷国忠氏(前橋図書館長)を代表とする図書館人もあった。青顔館長も渋谷氏も大正期に青年時代を送った教養人、自由人であり、また辻潤の研究家で萩原朔太郎の研究家であった渋谷氏とは親交があったためか考えに共通する所があった。「基本図書も大切ですが、市民の利用する小説や実用書も充実させては」と進言したが、「俺はクズ本は集めない」と主張は曲げなかった。教養人として徹し、哲学を持った館長だったといえよう。ただし館外奉仕の本の選定と。収書以外のことは職員を信用して自由にやらせてくれ、頼み甲斐のある上司であり、その自由な雰囲気の下で、日本の公立図書館としては大分変ったこと(公立図書館としては当然の活動と思っているが)もやった。

例えば昭和四十七年に有吉佐和子の『恍惚の人』が話題となり、読書界で良く使われたが、同じベストセラーの『日本列島改造論』を題材にしないのはおかしいと、保守系と革新系の市会議員を講師に市民読書会を計画したら、総選挙にぶつかり、外部から見合わせるよう注意されたが、青顔館長は「やれてバ」と支持してくれて、実行、大勢の市民が参加し好評だった。

また昭和五十二年に大型店が進出した際、大型店問題の資料を提供するのは公立図書館の市民に対する義務だと資料を集めたが、その提供に当たり行政と市民団体の間に立ち、いろいろ困難な問題に当面した。これを何とか乗り切れたのも青顔館長が理解してくれたからで、その活動経過は情報公開制度と今後の図書館活動の在り方として図書館界で注目をうけ、『法律時報』で取り上げられたりした。これが私を図書館の自由宣言に関係させることになってしまったのである。

菅野青顔は、辻潤や武林無想庵と親交があった。大泉黒石、宮沢賢治、湯川秀樹らを早くから評価していたという。

青顔というのは雅号で、「青顔さんは終始一貫、本名を用いず、雅号で押し通した。市役所など公文書は本名を記すので、『千助』という本名の表彰状や辞令をもらうと、青顔さんは憤懣やるかたない態度を示すのが常だった。青顔館長の反骨の姿勢がそこにみられるようであった。」(佐々木徳二)は贔屓の引き倒しだろうが、追悼文集は80人近くの人が文を寄せている。教養人、自由人であり魅力的な人物であることは間違いない。

追記

民芸店の備後屋でギャラリー華を開いていた故俵有作さんが、気仙沼の図書館に博学の館長がいた、君もああいう図書館人になりなさい、と言われたことがあった。菅野青顔のことだな、と思ったが、そんなの到底無理ですよ、と言ったことを思い出した。青顔は生活のことなど関係なしの人生であって、家計は奥さんまかせのようだったらしい。追悼集にそのようなことが書かれている。

私はそこまで徹底できない。というか、人としての大きさや魅力が欠ける私には、青顔を目標にすることなど、およびもつかない。石橋を叩いて渡らない父の背をみて育った者にとっては、青顔は無縁の人である。図書館についても「門前の小僧」でしかない私からすると、青顔や残日録54の蒲池正夫の闊達が羨ましくもある。

2019

2021年01月09日